ティファニーで朝食を
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人気ランキング : 101,396位
定価 : ¥ 540
販売元 : 新潮社
発売日 : 1968-07 |
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映画とが違うもう一つの「ティファニー」 |
映画が有名になりすぎてしまって、現在でも原作を読んだ人の方が
少ないのかもしれません。映画は原作と全く違うと評されていますが
個人的には、オードリーが魅力的に撮られていて映画は映画で良いと
思いますし、カポーティの原作には原作のよさがあり
別物だと割り切ればどちらも素晴らしい作品です。
もちろん原作では、ホリーはティファニーの前でパンを齧ったりしてませんw
ホリーは自由奔放で(東京ラブストーリー原作のリカはホリーが
モデルだと言われていますが)かなり周りを振り回しているのですが
それでも不思議と、わがままだとか、自分勝手だとか否定的な
見方にはなりません。むしろそれが彼女の武器であり人を惹きつける要因に
なっています。
カポーティがもともと好きだったので、こちらも辞書片手に原書を読んだこと
がありますが、時間がかかっても原作を読む価値はあると思います。
こちらの文庫本に収録されている短編もおすすめ。
特に「クリスマスの思い出」は秀逸です。
カーポーティと言えば、ゲイだとか変人だとかというイメージが先行しがち
ですが、「クリスマスの思い出」を読むと、とてもデリケートで
優しい心の持ち主だったんじゃないかな、と想像します。
だからこそあのような繊細な名作をいくつも残せたのでしょう。
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ただ旅して行きたいだけ |
「きっとあたしのこと厚かましい女だとお思いでしょ?それとも頭がどうかしてるとか、なんとかね」
「いいや、そんなことちっとも」
「いいえ、そうよ。だれだってそう思うんだもん。でもあたし、気にしないわ。それが役にたつんだもんね」
これが1958年に一人の作家が思いついた会話。でもちっとも古びていない。
今日もどこかでそんな風に言いながら笑っている女の子がいるはずだ。
私もそう思う。笑われたって、いいや。軽んじられたって、そのほうがうまくいくときもある。
ホリーは自分のロマンティシズムのためなら、どんな手段だって選ばない。
理解されようなんても思わない。そのせいで、沢山の人に囲まれながら、荒野に一人立つ様に孤独だ。
でもそれは、果てしない自由と、手の届かない星の如き輝きを約束している。
…彼女の眼は宝石屋さんの眼のように、それとわかる程度に斜視だったからだ。
それは大粒の眼で、少し青く、少し緑色をおび、あちこちに茶色がまじっていた。
…その眼は生き生きとした温かい光を放っていた…
チャーミングになりたい女の子と振り回されたい男の子に。是非。
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純愛ブームの今こそ再評価しましょう、 |
邦訳発売からすでに40年近い新潮文庫を代表するロング・セラー、
ホリー・ゴライトリーという20世紀を代表するような魅力的なキャラクターに触れるだけでも読む価値はあります、
初めて読む方のための前知識として、小説と映画ではエンディングがまったく違います、映画は娯楽映画として充分に脚色された作品、小説の時代背景は第2次世界大戦中、の二点は知っていたほうが良いと思います、
さすがにもう邦訳は古色蒼然の印象は強い、黒眼鏡・パンパン・金銭登録機・カートウェール・ワルツを踊るマチルダといった単語の数々、はては「扶壁形の細縞の上着の折り返しには」という表現にいたっては果たして現在の英文科学生の何%がどのような柄か想像できるのか逆に興味深い、村上春樹や高橋源一郎による新訳が望まれるとおもう、
なお、原作ではホリーは斜視の設定、するとユマ・サーマン主演による再映画化が期待されるでしょう、
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ホリディ・ゴー・ライトリー |
なぜあの映画がカポーティのチャーミングな原作とはかけ離れた凡作なのか?僕はその理由を長いことブレイク・エドワース監督(「ピンクパンサー・シリーズ」)の資質によるものだと思い込んでいた。
ところが、パトリシア・ニール自伝に、真実が記されていた。
古いマッチョスターになりたがり、謙虚さを忘れたジョージ・ペパードが主人公のキャラクターを嫌い、監督と言い争いながら
自分勝手に演じたためなのだそうだ。
確かに思い当たるシーンがいくつかある。
結局、ペパードの行き着いた先は「特攻野郎Aチーム」―二流のアクション俳優だった。
村上春樹の「キャッチャー」がベストセラーになっているが、この邦訳も、とっくに賞味が切れていると思う。
できれば、原書で読んで下さい。
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天才!! |
学校で読書感想文を書かされたとき、その頃フィクションを活字で読むのが苦痛で仕方なかった私は、仕方なく本屋に行って何気なく選びました。映画になっていることは知っていたし。
当然邦訳でしたが、彼の感性には全く驚かされました。一切無駄がなく、必要以上のことを書かないのに、言葉以上の意味をこんなに巧みに鮮やかに操る人がいたなんて。「アンファン・テリブル(恐るべき子供)」とコクトー(だっけ?)に言わしめたそうですが、この呼び名はまさに彼のためにあるようなもの、と信じてしまいましたね。
あまりの原作の良さに映画も観なきゃ、と思って観ましたが
結末がまるで違っていてガッカリしました。
あれでは、ホリーがクライマックス直前に猫を放して泣いた意味でさえ
全然違ってしまうじゃないか!と怒りを覚えたほど。
オードリーの魅力を最大限に生かしたという意味では、秀作なのかもしれないですけどね。
単なる想像ですが、ホリーも主人公の男性も、どちらもカポーティ本人の一側面であって憧れであったのではないでしょうか。
小洒落てて、孤独で、都会に埋もれて裕福ではないにしても、心は何かを追い続けていられるから生きていける。
成功を早くに手に入れ、その後破滅的(自己破壊的?)な人生を辿ったカポーティは、どんな思いでこの作品を書いたんだろう、と考えてしまいます。
他の作品を読みあさっていくと、その答えに近づいているような、でも近づけないような。
私がカポーティに飽きない理由は、そこにあるかもしれません。